一茶庵・煎茶・文会

自分で楽しみ、自分を愉しむ「自娯」の世界

一茶庵とは?

一茶庵の歴史

 一茶庵 佃(つくだ)家は、室町末期に連歌や立て花をした時宗の徒、一心(享禄四年没)を祖としています。江戸時代には上州中山道板鼻宿で脇本陣「駿河屋」を営み「いだの根芹」料理が名物でした。(文来庵霞睡『板鼻名産賦』天保二年)
 九代 源十郎 長與(一松 文化十四年没)は漢詩、煎茶、瓶花、俳諧、などを嗜む趣味人で、当時流行の唐料理(卓袱)を試み「唐料理会席献立」を遺しました。

一松手書「唐料理会席献立」

 十代 源十郎 長持(良甫 弘化元年没)は両替商も兼ねて、大坂、江戸を往来。大窪詩佛に漢詩を学び本格的に文人趣味を深め、陽明学を学んで「家の学」としました。また茶の湯と煎茶を続ける大胆な工夫をし、一服一銭という言葉をもじり「一服一煎」と洒落て楽しみます。「一服一煎とは…最も風流の極みにして何れにも偏らず、抹茶法煎茶之式にも離れ、法のぬけたる物なり」(良甫『一服一煎の巻』)

良甫手書「続茶経」(写本)良甫手書「茶断」(写本)
良甫『一服一煎の巻』(板本)

 十一代 治兵衛 長重(心甫 安政五年没)は良甫の文人趣味を受け継ぎ、「良甫諸事手控六巻」を遺しました。また唐様の書や南画を得意としていました。

心甫手書「良甫諸事手控六巻」

 十二代 源助 長友(九如 明治二十五年没)は維新後、横浜にも出店(「横浜商人録」明治十四年)し、貿易商をも兼ねて茶の輸出を手掛けました。
また大倉喜八郎と親しく、東京、大阪、上海などの知識人、経済人との交遊が知られます。また真葛香山に、自らの好みになる煎茶器を注文したりしています。

九如手書「内閣秘伝字府」九如手書「浮渭」(千字文)
『靑湾茗醼圖誌』明治八年 山中箺篁堂 板本
  昇玉  佃 一茶
(しょうぎょく  つくだ いっさ 1882~1967年)

佃家十三代治郎(のちに一茶と改名 昇玉 昭和四十二年没)は呉服商をも兼ねたのですが、やがて家業をすべて整理し、良甫以来の「文人趣味指南」を生業とします。
明治二十三年十一月八日には明治天皇御前で手前、同じく三十年には有栖川宮威仁親王から「一茶庵」の名を賜ります。四十二年に教場を開き、四十四年には求められて釜山にも教場を開きました。

大正七年、一條實孝公爵の勧めで、良甫以来の大阪の故家に本拠を移します。 大正十三年、はじめて学校方式による茶花の教場「大阪華道学校」(文部省認可)を設立。 「茶花道界の異端児」(大阪朝日新聞)と呼ばれました。
交遊門人には、長尾雨山、須賀蓬城、高瀬惺軒らの漢学系の人びと、杉野僲山、三好藍石、菅楯彦、近藤翆石らの大阪画壇の人たち、渡辺霞亭、大森痴拙、江上蝶花、食満南北らの文筆家など多士済々。「文人墨客の風流宴」(大阪毎日新聞)と評されました。また真葛香齋、二代三浦竹泉、三國丹祐らの京焼、坂井一方、平井汲哉、難波雅堂らの木工芸、木下翆香、山本竹龍齋らの竹工芸、角谷一圭らの金属工芸などの作家を集め、「昇玉好」と呼ばれるオリジナルな多くの器物を制作指導しています。一茶庵はこの人を中興の祖としています。

  玉充  佃 一鶴
(ぎょくじゅう  つくだ いっかく 1915~1939年)

名は、明。奔放不覇に新しい茶風や花をめざしながら、惜しくも早世。昭和初年の一茶庵相伝書の板本出版はこの人の手にります。

  江南  佃 一祐
(こうなん  つくだ いちゆう 1911~2007 )

初めての女性宗家として、煎茶道とは異なる文人趣味や煎茶趣味を継承。当時書物の少なかった煎茶や花について「煎茶文人花」(1970・浪速社)、「煎茶入門」(1972・浪速社)を著し、紹介につとめました。また「続煎茶全書」(1976 主婦の友社)や 「現代煎茶道事典」(1981主婦の友社)などにも独自のあり方を論じました。昭和三十年から毎月のように煎茶茶事(文会)を催し、大寄せ茶会とは別の伝承を固めました。

また良甫以来の陽明学を石崎東國に学び、昭和二十一年五月から毎月五十年にわたり、伊與田覺とともに陽明学の講座「洗心講座」を開催。晩年には関西師友協会副会長をつとめました。 西田直次郎、末永雅雄の薫陶を受け、昭和五十四年からは文人史論の「一茶庵講座」を開講。 また真葛香齋、二代前田竹房斎、萩井一丘、萩井一司、羽原一陽らの工芸家を指導して「江南好」の道具を多数制作させています。
大阪”吉兆”で催した古希記念茶会(1989年)や八十歳の連続80回煎茶茶事(1992年)など、明治煎茶会の雰囲気を今に伝えるものとして話題になりました。

プロフィール